歯科医への道を決める
私が津山高校に入学したとき、長兄、次兄ともに名古屋の愛知学院大学に進んでいました。愛知学院大学は学部が歯学部だけで、歯科の単科大学としては戦後最初に設立された大学です。
一方私はといえば、高校に入学したものの、ぜひとも将来は歯科医にという固い決心もまだありませんでした。中学時代にはテニス部でソフトテニスをやっていましたが、一応進学校に入って大学進学をめざすわけですから、クラブ活動はしないことにしました。
といって猛烈に勉強したかといえば、とてもそうはいえません。高校になるとレベルが高いうえ、例のブレ−キがかかる性分ですから、入学時にはそこそこだった成績は下がる一方、これではいけないと高校2年の夏から学校のある津山市二内に下宿することになりまたした。というのも、加茂町の実家から電車に乗って通学していたのですが、田舎の単線ですから一時間に一本です。早い方で行けば学校に早く着きすぎ、つぎのに乗ると遅刻。いまもそうですが、私は朝が弱く、それで下宿することになったわけです。
思春期に親元から離れての生活といえば、解放感からいろいろ冒険したりするものですが、私はそういうことにまったく無縁でした。ガ−ルフレンドをつくることはもちろん、喫茶店に入ることすらありませんでした。何ご五とであれ、未経験なことに対して非常に小心で慎重なわけです。
これも生来の性分のひとつでしょうが、じゃ、小心で慎重なままかといえば、そうでもないのです。これもずっとのちのことですが、愛知県で開業していた私が、東京でクリニックを開きたい、それも東京一の繁華街・銀座のど真中でと言い出したとき、周囲はみんな無謀だと反対しましたが、それを押し切って開業にこぎつけました。もちろん自分自身ではさまざまな経験をへて、自信もあったのですが、いざとなるとそういう思い切ったことをやってしまう部分もあるようです。
またまた、ずいぶん話が先へ飛んでしまいましたが、そうして下宿生活をしたものの、高校時代の成績も芳しいものではありませんでした。私の大学受験の前年、父は加茂町から名古屋市に出て、新しい歯科医院を開業しました。父としては大都会でやりたかったでしょうし、息子二人も名古屋の大学にいましたから、好都合だったわけです。
そうして私も進学先を決定しなければならなくなり、やはり父や兄たちと同じ道を進んだほうがいいだろうと考えました。いったん方向を決めると集中力も高まり、受験勉強に励むようになりました。そして、昭和47年、兄たちと同じ愛知学院大学へ現役合格することができたのです。