健康な歯を抜くことへの疑問

そうして毎日、クリニックで治療にあたりながら、私が考えていたのは「歯を矯正するために、なぜ健康な小臼歯を抜かなくてはいけないのか」ということでした。前章でお話したように、私の父は「悪い歯でもできるだけ抜かないように治療するのが歯医者だ」と口癖のようにいっていました。それは歯科医としての私の原点にもなっていました。

 

加えて、私が矯正歯科医になってまもなく、小学生の女の子を連れて治療に訪れたお母さんに「先生、どうして健康な歯を抜かないと矯正ができないんですか?」と質問されたのです。そのとき、私には答えようがありませんでした。「矯正は小臼歯を抜いて行なう」と学生時代から教えられ、教科書にもそう書かれています。

 

あとでまた触れますが、アメリカで50年ほど前、矯正治療をめぐって「抜歯・非抜歯」論争が起こったことがあります。結局、抜歯論が勝ち、それ以降ずっとアメリカでも日本でも第一小臼歯を4本(ないしは8本)抜いたうえで矯正治療を行なうことが主流になってきたのです。

 

この抜歯論の根拠は、ひと言でいえば「見た目の美しさ」をつくりだすことにあります。口にまわりにはさまざまな表情筋があり、口元の微妙な変化は表情をつくるときに重要な役割をもっています。口の微妙な動きが、顔全体の表情のポイントになっているのです。 

 

そのなかでも、きれいな前歯は笑顔の印象をとても良くします。笑ったときに口元からのぞく歯並びは、顔の美観の決め手になるほどです。昔から「明膀皓歯(めいぼうこうし)」という言葉があります。これは美しく澄んだ瞳と歯並びのきれいな白い歯の意味、つまり美人の形容とされていたわけです。

 

そのため欧米でも日本でも、矯正歯科というと、顔立ちを美しくするため歯並びを良くするものというイメ−ジをもたれています。また、矯正歯科医のほうも「前歯の並びをきれいに治してほしい」という希望に応えるため、前歯の見た目を治すことを目的にした矯正法を行ってきました。

 

それが前述したように、犬歯(八重歯・糸切り歯)のすぐうしろにある、第一臼歯を抜いてその隙間に飛び出た前歯をおさめるという方法です。前歯の見た目だけを考えると、外からはほとんど見えない歯で、しかも前歯のすぐ近くにある歯を抜くのが一番簡単だからです。

 

専門用語で「便宜抜去法」と呼ばれているこの方法は、もともと歯があった前歯近くにある歯の隙間に前歯をおさめるために、見た目が急激に変わります。そのため、矯正後の満足度も高いわけです。この簡単な便宜抜去が矯正の主流になった背景には、麻酔をはじめ歯科技術が格段に進歩し、ペインレス(無痛)の方法がつぎつぎに開発されてたことがあげられます。

 

しかし、見た目の美しさのため、健康な歯を抜いてしまうこの便宜抜去は、どう考えても無理るといわざるをえません。前述したようにどの歯にもそれぞれの役割があります。それを無視して抜いてしまうと、あとになって弊害が起きる可能性が高いと思われます。これも後述しますが、たとえば、噛む機能が低下したり、下顎がうしろにいかないようにサポ−トする機能がなくなって顎機能が問題を起こしたり、「後戻り」と呼ばれる再発を起こしやすくなったりするのです。

 

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